ゆーすPのインディーロック探訪

とあるPのインディーロック紹介ブログ。インディーからオルタナ、エレクトロ、ヒップホップまで。

シミュラークル社会を暴くためにーDisc Review : Arcade Fire / Everything Now

シミュラークル社会を暴くために
Disc Review : Arcade Fire / Everything Now (2017)

 

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 確かに、非常に評価が難しい作品である。このアーケイドファイアの新譜に対しては、リリース以前の大きな期待に反して落胆の声や失望の声がよく聞かれた。ピッチフォークでは5.6点とこれまでの最低得点であったし、アマゾンのレビューでも星1の評価が散見されている。実際その低評価の多くはそのポップ然としたサウンドに起因するもので、今作において引用されたABBAやビージーズのような70年代ディスコミュージックがうまく機能していないことだったり、「インディーロック」を牽引してきた彼らのポップ化に対する失望であったりが原因として見受けられる。確かに、発売前に本作にかなり期待をしていた私がこの作品を一聴した感想はというと、あまりにも心に刺さるものがなく、気づいたら13曲目のアウトロを迎えていたという感覚であった。発売してから一か月以上経ってのレビュー執筆の一因はまさにここにある。

 しかしながら、今作をめぐるアーケイド・ファイアの様々な宣伝戦略やその方法を鑑みてこのアルバム再考すると、今作品自体が非常にアイロニックなものであり、表面的なサウンドだけでは読みとれないメッセージが顔を覗かせる。そう考えると、サウンドにおけるABBA的なディスコミュージックの模倣というポップさやチープさはどこかミスリーデンングとして用いられているように思えてならない。ということでここから、"Everything Now"をそのサウンド外の要素から考えていきたいと思う。

 

・サウンド"外"から見るアーケイド・ファイアの戦略

 今作をめぐる展開で最も話題を呼んだのは、やはりなんといってもその宣伝方法であろう。今回彼らはアルバムの発表をめぐって"Stereoyum"というサイトを立ち上げた。実物を見ていただいた方にはお分かりかと思うが、これ、まさに"Stereogum"のパロディである。さらにバンドがライブのストリーミング中継をすると謳ってウェブサイトを立ち上げたものの、サイトをいざ見てみると、"LIVE"の文字が"LIE"へと変化する、という仕掛けが仕込まれている。こういった"仕掛け"を、現在のアメリカで社会問題となっているフェイクニュースに対する皮肉であったり、情報の膨大化や高速化に伴う社会変動に対する警笛として捉えるのは想像に難しくない。

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これがその"Stereoyum"のトップ画面。なかなかに作りこまれたデザインとレイアウトで"フェイクニュース"を取り巻く問題を想起させる。

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そしてこちらがそのストリーミング中継の画像である。左上の"LIVE"の文字に注目。

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そう。上の"LIVE"の文字がなんと"LIE"に変化しているのだ。

※上画像は出典 Arcade Fire Launch "Everything Now" Live Stream | HUH.・下画像は出典Arcade Fire's next album arrives this Julyに依る。

 

 さらにアルバムの歌詞カードに目を転じてみるとまるでスーパーのチラシを模したようなデザインであることに気づく。これはまるで現代の資本主義社会、消費社会に対する皮肉のようだ。又、彼らの今作におけるアーティスト写真には、メンバーの後ろ姿が映っているものが多いが、彼らが着用しているジャケットの背中には、ENという文字が中心に位置しそれを地球の経緯線が取り囲む、というマークがプリントされている。このマークは現在、アーケイド・ファイアの正式なロゴとなっているようだがこのマークが指しているものもまた、現代社会におけるインターネット社会への危機感であったり焦燥感であろう。このインターネットに対する問題意識は彼らの現在の公式HPからも感じ取ることができる。

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今作における彼らのアーティスト写真の一つ。この"EN"のマークこそが上述のロゴである。

 

アーケイド・ファイア現代社会の諸問題を自ら背負い込んだ

 このように、この作品を取り囲んでいるのは、大衆を扇動するメディア、何もかもが消費されていく資本主義社会、情報化がもたらす急激な社会変動、といった、この現代社会を取り巻く様々な問題群である。こういったことを踏まえて"Everything Now"というアルバムタイトルを見ると、「全てが今」―すなわち高度な情報技術の発展によって知りたいことをなんでもすぐに知ることができるようになり、欲しいものがなんでもすぐに手に入るようになり、聴きたいと思った音楽をなんでもすぐに手に入れることができるようになったこの現代社会を表す一言であると捉えらえよう。

 しかしここで"音楽"に触れたように、音楽も、ポップミュージックも、そしてアーケイド・ファイアも、そんな現代社会を取り巻く問題の一端を担っている。消費社会の到来によって「差異」が重要になったこのシミュラークル社会で、非物質的な「音楽それ自体」が商品となっていく。そのプロセスで価格という記号によって暴力的に表象され、様々な商品完成までのプロセスや苦悩といった事物は排除されてしまう。これに鮮やかなまでに対抗しようとしたのがKanye Westの"The Life of Pablo"であったとすれば、この"Everything Now"はそうした消費社会、資本主義社会から逃れられないポップミュージックが負っている業を自ら背負い込んでしまった作品だ。こうした「消費される音楽」に進んで自らなってしまったのである。

 こうしたアーケイド・ファイアのいわば戦略は、ボードリヤールの「神話への対抗戦略」と相通ずる点がある。ボードリヤールは、この消費社会がすべてのものを消費し吸収してしまう最強の神話であるとし、それに対してただ一つとりうる戦略は、「自体を極端にまで推し進めて、きわめて自然に事態が逆転し崩壊するようにさせなくてはならない」というカタストロフィックな戦略であると考えた*1。消費社会は自身に対する対抗戦略や対抗暴力をも消費してしまい、こうした対抗策はかえってシミュラークルのシステムを補完してしまうというのだ。こう考えてみると、シミュラークル社会の一端である自分たちを見事に引き受けてしまったこの"Everything Now"は、意図的であるかどうかは別にしろこの消費社会の本質を実に射ている。

 「聴きたいと思った音楽をなんでもすぐに手に入れることができるようになったこの現代社会」において音楽産業を構成する一員である自分たちは、現代社会の諸問題の一端を担っている、ということを彼らは自ら進んで背負い込んだ。メディアを利用し自らの音楽が他と如何に異なっているかと差異を強調し、音楽という非物質的なものやコンサートといった"経験"を商品として売りさばき、ライブのストリーミング配信やアップルミュージックをはじめとする音楽配信サービスといった暴力的なまでに同時高速的な情報伝達技術を活用する。アーケイド・ファイアはこのように現代世界の諸問題の一端を担い、助長しているという全てのバンドが生まれながらに持っている原罪を引き受けたのである。この原罪は、全てのアーティスト・バンド・ミュージシャンが持っている。そんなミュージシャンらが現代社会の諸問題を摘発し反発することの可笑しさ、矛盾をアイロニックに示した今作は、一筋縄ではいかない非常にコンセプチュアルでアイロニックな魅力に満ちた一枚なのである。

 

・"批判的な思考"のために

 だから、本作に対する批判として「難解でわかりづらい」「サウンド自体の魅力に乏しい」といった指摘はまさに的を射ていると言えよう。しかし今作を聴くにあたってはぜひ、以下のウィン・バトラーの発言に耳を傾けていただきたい。

自分では存在するものを輝かせる衣装みたいなものだと思っているけど、他の人にとっては違うことを意味するかもしれない。いずれにせよ僕たちは純粋にアーティストで、アートが大好きで、このアルバムの曲やダンスに何らかの価値があると考えている。それに批判的な思考を持ちながら楽しむことができているんだ。これはすべて今、起こっていることに繋がっているし、僕らも繋がり続けようとしている*2

―この発言からは、彼の相対主義的考え方が見て取れるが、重要なのは"批判的な思考"という点である。確かに音楽の本質はサウンドそれ自体であるという考え方は間違ってはいない。しかし音楽を本質主義的に捉えるとそこに隠されたメッセージやそれを取り巻く環境を掴むことができなくなってしまう。そんな聴き方も悪くないが、今回に限ってと考えてたまには音楽を「批判的に楽しむ」という方法論をこのアーケイド・ファイアの新譜から学んでみるのもいいかもしれない。