ゆーすPのインディーロック探訪

とあるPのインディーロック紹介ブログ。インディーからオルタナ、エレクトロ、ヒップホップまで。

「私とあなた」の世界を超えてーDisc Review : Beyonce / Lemonade

「私とあなた」の世界を超えて

Disc Review : Beyonce / Lemonade (2016)

f:id:vordhosbn:20180427204315j:plain

どうも、ゆーすPです。先々週のコーチェラでのビヨンセがあまりにも圧倒的すぎて、以降、ひたすらLemonadeを聴いていました。ということで今日は突然ですが、ビヨンセのLemonadeのレビューです。

 

"The most disrespected person in America is the black woman. 

The most unprotected person in America is the black woman. 

The most neglected person in America is the black woman."

「アメリカで最も軽蔑されているのが黒人女性だ。アメリカで最も守られていないのが黒人女性だ。アメリカで最も無視されているのが黒人女性だ。」 (マルコムX, 1962/5/22, ロサンゼルス)

 

ーーーー 

Are you cheating on me?(浮気してんの?)という衝撃的なビヨンセの暴露から始まる本作は、確かに何よりもビヨンセの私的な、個人的な経験が落とし込まれた作品であることに間違いない。ビヨンセの夫は誰もがご存知のJay Zであり、「Jay Zの浮気にブチギレるビヨンセ」という構図は本作の一つの柱となっている。
オープニングトラック"Pray You Catch Me"ではまだ夫の浮気を悲しむしおらしさが見られるが、続く"Hold Up"ではその曲調とは裏腹にバットで車を、監視カメラを、ぶっ壊しながら歩くPVが如実に示しているように、夫への怒りを爆発させている。Jack Whiteを迎えたロックナンバー"Don't Hurt Yourself"ではさらにヴォルテージは上がり、"if you try this shit again, you gon lose your wife"とまで言い放ち、"Sorry"でタイトル的に「私もごめん」的な展開になると思ったら"sorry, I ain't sorry"(謝らなくてごめんなさいね!!!)って具合で中指を突き立てる。

www.youtube.com

しかし、続くThe Weekndをフューチャーした"6 Inch"で少しここまでの様子と異なるビヨンセの姿が見え始める。これまで怒り一辺倒だった彼女が、"come back"ー帰ってきて、と呟くのだ。

この心境の変化はその後の楽曲でよりクリアな形で表れる。カントリー調の"Daddy Lessons"やKelelaを彷彿とさせる神秘的な佇まいを携えた"Love Drought"、そして彼女の内面を吐露する"Sandcastles"と、内省的な楽曲が続く。ここで歌われるのは前半に見られた夫への怒りではなく、浮気された妻としての悲しみだ。ここでビヨンセは自分と向き合い、そんな悲しみから立ち上がろうと、悲しみを乗り越えようと、"前を向く"のである。ちなみにアルバム9曲目の"Forward"で、彼女が前を向くのを後押しするのがあのJames Blakeであるというのもまた興味深い。

 

ここまで歌われてきた葛藤は、彼女の夫に対する感情と、彼女自身の感情そのものであり、この点では確かに非常にパーソナルな、経験的な作品と言えるだろう。

しかしながら、アルバムはここで終わらない。自由を掴めと歌う"Freedom"で、彼女は黒人として、女性としての自らのアイデンティティを胸に声をあげる。ここで、これまでの個人的な経験が「私とあなた」の世界を超えて、「黒人とアメリカ社会」、「女性と男性」という形で表象されるのだ。この個人と社会を結びつけるという作品のあり方は、まさにこの"Freedom"でコラボしているKendrick Lamarが"To Pimp A Butterfly"で試みたことである。*1

続く"All Night"でアルバムの物語は夫婦の仲直りという形で一旦集結するが、最後にこのアルバムの要とも言える楽曲"Formation"が残っている。

自身のルーツの強調から始まるこの楽曲で、彼女は「父はアラバマ、母はルイジアナ、そんな二グロとクレオールでテキサス娘の私ができた」と歌い上げる。アフリカン・アメリカンとしての私、クレオールとしての私、そして女性としての私、これらのアイデンティティの強調は、彼女の作品が個人を超えて社会へ到達する一つのカギとなっているように思われる。ビヨンセとして歌うのみならず、こうしたアイデンティティの衣装を身に纏うことで、「連帯」の醸成に見事に成功しているのだ。そんな「連帯」の重視は、"Now let's get in formation"ーさあ、みんな列を組もう、という印象的なラインにはっきりと見て取れる。ここにきて、ビヨンセの個人的な感情、経験は、共感され、共有され、社会的、集団的なものへと変貌するのだ。

www.youtube.com

 

ーーーー

現代社会において、我々は自由を手にしている。しかし、我々があんなにも望んでいたはずの自由は、「私」と「世界」の間に断絶をもたらした。自由は、宗教的、部族的、家族的などの共同体的な制約からの解放をもたらしたが、一方で徹底した個人主義を生み出したのである。

自由な社会における個人はこんなにも孤独だ。ある教会に属して毎週お祈りに行く必要もなければ、祖父母と共に田舎で暮らす必要もなければ、必ずしも結婚して子供を持つ必要もない。こうして、「社会に埋め込まれた個人」は、「社会の外にいる個人」となる。

では、果たして、バラバラの個人の集まりとしての社会ー「連帯なき社会」は可能なのだろうか。我々は、この大きな問いに直面している。アメリカの多くのコミュニタリアンが主張するのは、「連帯なき社会」において、民主主義は成り立たないということだ。民主主義は人々の政治参加を通じて成り立つが、その政治参加のモチベーションとなりうるものが「連帯なき社会」においては存在しないという。

日本でよく投票率の低下、政治への無関心が取り沙汰されるが、それはこのことと大いに関係がある。個人化した我々にとって大事なのは、公共の福祉なんかではない。「私」の利害だけである。他の人たちがどうかなんて関係ない。「社会の外にいる個人」は、「内」にいる人々との共通の利益を考えることができないのである。

そんな現代社会で、個人を超えて「アイデンティティ」を強く主張するビヨンセのあり方は、大きな示唆を与えてくれる。もちろん、「アイデンティティの政治」にまつわる問題も多いのだが、この行き詰まった「連帯なき社会」を打ち破るヒントがそこにあるのは確かだ。

 

ーさあ、ガールズたち、列を組もう。

このラインは、多くの女性の心を掴んだ。「マジョリティのための民主主義」から「マイノリティの民主主義」へ。多くの問題が山積みになっているこの社会で、我々にもできることが何かあるんじゃないか。我々にも社会を変えることができるのではないだろうか。そんな「私」と「世界」の断絶を打ち破るエネルギーの源泉が、この"Lemonade"にある。

 

 

追記(4/30):

この「私」と「社会」を結びつけようとするビヨンセの姿勢こそが、近年のJポップに欠けているパースペクティブだと改めて思う。確かに我々は個人主義的な世界に暮らしており、社会や世界との繋がりは希薄化している。そうした意識を反映してか、Jポップには「君」と「僕」についての歌が多い。聴いているとまるで「君」と「僕」以外には世界に誰もいないかのような、2人だけの世界にいるかのような錯覚に陥る。

しかし、ここでは「君」と「僕」の間にあるはずの「社会」が完全に抜け落ちてしまっている。いくら社会との繋がりが希薄化したとは言っても、我々は社会から逃れることなどできない。社会に我々ははめ込まれている。それは生まれた瞬間に出生届が作られてから死ぬ直前まで、いや、死んだ後でさえそうだ。

確かに、社会から逃避して2人だけの世界を作ることは魅力的かもしれない。しかしそれが魅力的なのは、それが非現実的だからであって、共感的だからではないはずだ。

逆説的に映るかもしれないが、時代を超えて残る歌は、「社会」が抜け落ちていない歌だ。非現実的な楽曲こそ、社会(この社会とはある特定の時代、環境、状況のことであるが)を反映していないのだから普遍的なのではないか、と思うかもしれない。現実を反映した社会的な楽曲こそ、何かしらの特定の社会を反映しているのだから特殊的、すなわち一時代的なのではないか、と思うかもしれない。

この逆説をまだ私はうまく説明できない。そんなことない!と反論されれば崩れてしまう脆い「思いつき」に過ぎない。そんな「思いつき」で恐縮だが、私はこう思う。特殊的なもの(社会の視点がある楽曲)は特殊、一時代的だからこそ後世にあっても聴く価値があるのだと。普遍的なもの(社会の視点が抜け落ちている楽曲)は普遍、非時代的だからこそわざわざ後世に改めて聴く価値がないのだと。だって、わざわざ「昔の」曲を聴く必要がないじゃないか。その普遍的楽曲は、その現在の「普遍的楽曲」で代替可能じゃないかと。