ゆーすPのインディーロック探訪

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Disc Review : Bloc Party / A Weekend In The City (2007)

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 大都市ロンドンにおける若者の退廃と絶望、セクシュアリティレイシズム、あるいはマスメディアの煽動的報道——本作において俎上にあがるテーマをざっと羅列しただけでも、このBloc Partyの2ndアルバムが所謂ロックンロールリバイバルを牽引する一連のバンドのディスコグラフィの中でいかに特異な存在であるかはすぐ分かる。1stアルバムSilent Alarmの大成功により瞬く間にUKロックシーンを代表する存在となったBloc Party。彼らは、2ndアルバムA Weekend in the Cityで社会的諸問題に真正面から向き合い、日常と非日常の間に揺れるロンドンを、世界を、現実を、見事に描ききったのである。

 本作を彩るテーマの一つは、タイトルからも明らかなように、大都市(特にロンドンのようなメトロポリス)の中で生きる我々の日常的生活である。都市の夜景が描かれたジャケット写真について、この写真を撮影した写真家が「いかに都市における公的空間が複雑に、そしてオプティミスティックに共有されているかを示している」と述べているように、ロンドンの日常の息づかいをリアリティをもって伝えることが一つのメインテーマとなっている。だが、本作において描かれる日常は、非日常と表裏一体の相をなしており、単に平穏なもの、単調的なものとして描かれているわけではない。実際、ドラッグやアルコールに溺れる若者の様子、ロンドンのユースカルチャーの現状を歌うケリーオケレケの視線には複雑な心境が渦巻いている。説教がましく若者のあり方を断罪するのでも、一緒になってスノビズムに加担するのでもない。「注目を欲しがるのはそんなにいけないことですか?ご褒美を欲しがるのはそんなにいけないことですか?」(The Prayer)とクラブで刹那的な快楽に浸る人々の目線に立ったかと思えば、「肉やワインや贅沢をむさぼるってわけ だけど心の中では全然気乗りしなくて ほんとに心に触れることなんてなんにもないんだ」(Song For Clay)とパーティーに明け暮れる日々への虚無感を歌う。あるいはまた、「モールを出たときには失望感が漂ってた 若いヤツらがみんな同じに見えた」と画一化する大衆を糾弾したかと思えば、「僕たちは今あるもので最善を尽くしてる」(Sunday)、「ちょっと時間をくれよ 何時間も何日もじゃなくていいから」(Waiting For The 7.18)と、日々を懸命に生きる人々の想いに寄り添ったりもする。ここには、杓子定規的に問題を定式化・抽象化することを拒み、日常をその具体的個別的あり方に寄り添って描こうとするケリーの奮闘の跡がある。この点は、1stアルバムにおいて比重を占めていた抽象的・記号的歌詞(そしてそれらは「インテリ然」としたスタンスと非難されることもあった)から決定的に距離をとったことの証左でもあろう。

 そして、何でもないような日常は突如として非日常に移り変わる。現実は、我々の住む日常が社会と、あるいは世界と不可分であることをこれでもかと突きつける。テレビをつければニュースキャスターがテロ事件を報じ、恐怖をあおってこう叫ぶ。「敵は私たちの中にいる!」「私たちの女や仕事を取り上げようとしている!」と(Hunting For Witches)。理論的思考は感情的叫びにいとも簡単に乗っ取られる。こうして煽り立てられた大衆は、「魔女狩り」=悪者探しを始めるのである。こうしたテロリズムと人種差別の問題は、「西欧の白人世界に住む黒人」であるケリーオケレケにとって、避けることのできない問題であった。ケリーは自身のアイデンティティについて、以下のように語っている。「西欧社会で育つ普通の黒人の青年だったら、誰でも混乱してしまうことだと思うよ。自分は主張できるし、権利があると思いつつも、社会そのものがキリスト教の白人男性ばかりによって管理されている事実に突き当たってしまうし、今をもってしてもぼくたちは、社会の辺境のグループにすぎないわけだからね。」*1

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 2005年に発生したロンドン同時爆弾テロは、ロンドンにおいても未だ根強いレイシズムが存在することを明らかにした。そして、2006年には、Where Is Home?で歌われているように、ケリーの家族のいとこが人種差別主義者に殺されるというショッキングな出来事が起きてしまった。「葬式のあとコーラとナッツがでてきて 僕たちは座って昔のことを思い出す 彼女の声には悲しみだけ ひとり息子が奪われてしまったんだ」——Where Is Home?は、葬式のあとの悲しみの様子をこう歌う。かつてケリーは黒人である自分が白人社会のインディーシーンのど真ん中でロックをやるということに「大した意味はない」というスタンスをとっていたが、世界はケリーにそういったスタンスに留まらせることを許しはしなかった。テロによって、あるいはテロによって恐怖を駆り立てられた「善良な市民」によって、レイシズムが自分の目の前に降りかかってくるのである。「二世のブルース 僕たちの意見は耳も傾けられない」、「どの見出しを見ても思い知らされる ここは僕たちの家じゃないってことを」(Where Is Home?)と、ロンドンにおいて疎外感に苛まれるケリーの素直な気持ちが赤裸々に歌われているのだ。

 「この街みたいに僕が結び合わされることは決してないだろう」(Kreuzberg)——トルコ移民が多くいるベルリンのクロイツベルク地区に思いを馳せるケリーは、多民族都市と言われるロンドンの状況がまったくもって良いものではないことを嘆く。そして、このKreuzbergを境に、アルバムはぐっと個人的領域へと入っていく。ロンドンの街から、ベルリンの地区を通って、我々はプライベートの空間へと誘われる。I Still Remember、Sundayは純粋なラブソング、そしてラストトラックSRXTはある一人の男による自殺前の心境の吐露である。

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 ドゥボールの『スペクタクルの社会』やルフェーブルの『日常生活批判』を読んでいたというケリーは、これらの影響を多分に受け、本作で、若者文化、消費社会、画一化といった問題を提起した。しかし、Bloc Partyにとって、これらの社会問題、現代社会に通底する病理は、彼らの属するロンドンという都市・コミュニティと不可分ではいられない。また、テロリズムやメディアによる扇動、人種差別の問題も、ロンドンにおける黒人のおかれている実際の状況、そして実際にテロの被害を受けた人々の悲しみ・苦しみと切って離せないものであり、ケリーはそれに無関係でいられなかった。かつて自身のアイデンティティを重要視していなかった(少なくともそうインタビュワーに話していた)ケリーは、否応がなく、社会の暴力に巻き込まれ、日常と社会、世界が不可分であることをまざまざと見せつけられた。

  「ポップソングが政府を変えるわけじゃない」(Uniform)——ケリーは、ポップミュージックの限界をはっきりとわかっていたし、それゆえに、大文字の「社会」や「理想」に拘泥することを良しとしなかった。代わりに彼らが試みたことは、個々の、経験的具体的な心情に「寄り添うこと」、であった。単にニヒリスティックに静観するのでもなく、だからといって一緒になって我を忘れるのでもない。彼らは他でもない「週末の都市」の登場人物であり、その状況の真っただ中にいるのである。

 

(後記)

最近なかなかアルバムを腰を据えて聴く機会が減っているなぁ…という思いから、改めて大好きだったアルバムをじっくりと聞き直そう、ということで久々にCDと歌詞カードを引っ張り出して聞いておりました。Bloc Partyというとやっぱり一番人気はHelicopterでありBanquetであり、1stアルバムなのかなぁと思いますが、個人的にはこの2ndアルバムも超名盤だと思います。ので、1stのみしか知らなかった、といった皆様にはぜひ聞いてほしい一枚です。

それにしても、社会人になってなかなか音楽にじっくりと腰を据えて聴く機会が持てなくなって寂しいばかり。1か月に一枚でいいからこうやってきちんとアルバムを聴きこめたらなぁと思う限り…。

 

 

*1:粉川しのBloc Party / A Weekend In The Cityライナーノーツ」