ゆーすPのインディーロック探訪

とあるPのインディーロック紹介ブログ。インディーからオルタナ、エレクトロ、ヒップホップまで。

コラム:「クルマ」と音楽と資本主義——The Smithsと交通事故、Radioheadとエアバッグ、The 1975とカーセックス

どうもゆーすPです。今回はいつもと違ってお堅い文章です。現代思想の類は好きだけど自分で考えを文章化するのはなかなか難しい…

以下の文章は、簡単に言えば「クルマ」について歌われている古今のイギリスのポップカルチャーを代表する名曲三曲(The Smith / There Is A Light That Never Goes Out、Radiohead / Airbag、The 1975 / Love It If We Made It)に注目して、それらの楽曲で「クルマ」がいかに表現されているか、そしてその表現にはいかなる意味があるのか、を考察したものです。ひいては「クルマ」という資本主義の象徴の破壊を通じて、彼らはいかにして資本主義を乗り越えようとしたのかを考えてみれたらなぁと思います。

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□「クルマ」と近代と資本主義

「クルマ」は、近代の象徴である。クルマは、何よりも産業革命以降の技術的発展の帰結として誕生した移動手段の最たるものであり、人類の空間的、時間的可能性を劇的に変容させた。クルマ以前の社会では不可能であったことが、クルマ以後では当たり前のように可能になり、我々の暮らしを根底から変化させたということは言うまでもないだろう。

近代の象徴であると同時に(あるいは象徴であるがゆえに)、クルマは資本主義の象徴でもある。このことは、自動車産業の規模の巨大さを見れば一目瞭然だ*1。さらに、クルマの大量消費=大衆化現象も、クルマが資本主義の象徴であることを体現している。多くの人々がクルマを買い、消費者としての役割が相対的に向上していくということによって、クルマの存在は”平等性”と”消費主義”という資本主義社会の構造の強化に大きな影響を与えているのである*2

 

□ポピュラー音楽と資本主義

ポップミュージックもまた、資本主義と切っては切り離せない関係にある。かつてアドルノはポピュラー音楽の「構造的な規格化」(「規格化」されたポピュラー音楽は複雑な表現を思考させず、単純な面だけ取り出して聞くよう仕向けるという指摘。つまり規格化された音楽内容は聴取の仕方も規格化し、自律的思考から遠ざけるという(=「聴取の退行」)。)*3を論い、ポピュラー音楽に対する軽蔑的感情を露わにしていた*4が、この批判は資本主義的なメカニズムに組み込まれた音楽が商品的性格を持つことから説明されている。つまり、「音楽の社会的価値が重要になり、有名な音楽家のコンサートを聴きに行くことがステイタスになったり新曲をいち早く歌えるようになることを求めるようになる」ことで、音楽的内容や意味が忘れられ、音楽の質が消費者の意識に上らなくなっていくのである*5

確かに、このアドルノのポピュラー音楽に対する嫌悪感は少しばかり行き過ぎているような気もするが(実際に多くの論者がアドルノの主張を様々な形で批判しており、現在ではアドルノのポピュラー音楽批評を無批判で援用する論者はいないだろう)、一方で現在の音楽シーンが「アドルノ的な悪夢的な資本の支配に飲み込まれてしまっている」こともまた確かであろう*6。実際に、ドラマやCMのために作られるタイアップ楽曲、毎週のように次々とリリースされ消費されていく新譜、握手券付きで販売されるCDなどを見ていると、音楽が商業主義・資本主義によってひどく歪められているように思えてならない。

 

□音楽の想像力は資本主義を超えるか?

資本主義というシステムはあまりにも強大だ。我々は資本主義無き世界を想像することすら困難な時代を生きている。しかし、資本主義システムの限界は至る所で指摘されているし、音楽の過度の商業主義化の問題は資本主義システムが存続する限り完全に解決されることはないだろう。むしろ「ポピュラー音楽」に関して言えば、そもそも資本主義の中で生まれたものであり、その意味で資本主義と「ポピュラー音楽」は表裏一体の関係にある。

大澤真幸の『サブカルの想像力は資本主義を超えるか』とマーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』は、資本主義に代わるシステムを考える際にポップカルチャーにヒントを見出そうとする。前著は、我々が未だ「資本主義後」の世界を想像できていないとして、サブカルチャーがその世界を想像することができるのかを模索したものであり*7、後著は、「資本主義は唯一の選択肢である」という認識が、実際の資本主義の頑健さ以上に人々に信じ込まれてしまっているという認識を「資本主義リアリズム」と表現し、「資本主義は本当に唯一の選択肢なのか」をイギリスのポップカルチャーを踏まえつつ再考したものである*8

日本とイギリスでほぼ同じ時期に「資本主義後」の可能性をポップカルチャーを通じて模索する著作が発売されたのは単なる偶然であろうか。やはり、資本主義のオルタナティブを考えるにあたり「ポップカルチャー」が大きな意味を果たしうるのではないだろうか。以下、大澤やフィッシャーに倣って、ポップカルチャー(特にイギリスのロックミュージック)を通じて、「資本主義のオルタナティブ」を考えたいと思う。特に、ここではイギリスのポピュラー音楽において資本主義の象徴たる「クルマ」がいかに表現されているかに注目することで、ポップカルチャーの資本主義に対する姿勢を考察したい。

以下、80年代、90年代、10年代を代表する英国ロックの名曲であるThe Smith / There Is A Light That Never Goes Out、Radiohead / Airbag、The 1975 / Love It If We Made Itにおけるクルマの描かれ方から、クルマと音楽と資本主義の関係を考える。

 

□交通事故という劇薬ーーThe Smith / There Is A Light That Never Goes Out

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The SmithのThere Is A Light〜は、同バンドを代表する名曲であるに留まらず、イギリスの80年代を代表する楽曲である。本楽曲がいかに優れているかは他に譲るとして、ここでは同楽曲において「クルマ」がいかなる意味を持っているかを考えたい。

Driving in your car

I never never want to go home

Because I haven't got one anymore

ここでは、家を追い出され帰る場所もない主人公が「あなた」の車に乗って行くあてもなくさまよう様子が伺える。

And if a double-decker bus

Crashes into us

To die by your side

Is such a heavenly way to die

And if a ten-ton truck

Kills the both of us

To die by your side

Well, the pleasure  the privilege is mine

そしてサビでは「二階建てバスや10トントラックに轢かれても、君の隣で死ねるならそれもいいね」と、恋愛感情と自殺願望が渦巻いている状況が歌われている。家族に絶望した少年(少女)が一方で恋人に無垢なまでの信頼を寄せている様子はとても純粋で、ある種の美しささえも感じさせる。

さて、ここで交通事故は、家族(=現実)から逃れるためのもの、そして恋人(=夢)と永遠に一体化するものとして描かれている。つまり、ここで主人公はクルマという現実社会の象徴を劇的に破壊させることで、現実の鎖を引きちぎり、非現実の世界へと没入しようと企てているのである。

現実=資本主義の象徴としてのクルマを根底から破壊する交通事故を神聖視するこの歌詞は、The Smithsによる資本主義の鎖を引きちぎろうとする試みと解釈することも可能なのではないか。実際にThe Smithsは労働階級出身であり、サッチャー政権によるネオリベ的政策への批判やバンド・エイドに対する批判を展開しており、自由主義的な経済政策には反対であった。とすると、資本主義の象徴=クルマの破壊(交通事故)によって資本主義に対する反抗を示す意図があったのではないか。

しかし、交通事故という劇的なクルマへの反発もまた、資本主義・消費主義に回収されてしまう。ボードリヤールは『消費社会の神話と構造』第一部で「消費社会が交通事故を必要としている」という記している。我々は「まさしく何も起こらない場所」=日常生活のシステムの中で、現実的・社会的・歴史的な世界をできるかぎり排除することを目指している一方で、「本質的に自発的で行動的であり有効性と犠牲を旨とする社会的モラルの規範との間の矛盾」を抱えることとなる、というのである。つまり、安全で苦労の心配がない世界にいる我々は、その受動性を「罪深く」(=負い目に)感じてしまう。この負い目を取り除き、おのれの安全の選択を正当化するために、暴力と非人間性の象徴として「交通事故」が必要とされるのである*9

「——交通事故、それは消費社会で最も美しい巨大なハプニングであり、消費社会は交通事故によって、モノと生命の儀式的破壊のうちにあり余る豊かさの存在を立証してみせる」*10

この一文を読んでいると、結局我々は資本主義から逃れられないのではないか、とニヒリズムに陥ってしまいそうになる。「クルマ」という資本主義の象徴による悲劇的な事件をも資本主義のシステムに呑み込まれてしまうとするならば、我々は資本主義にどう向き合えば良いのだろうか。

 

□保証された安全という皮肉ーーRadiohead / Airbag

The Smithsが交通事故によってラディカルに現実社会からの逃避を図ろうとしていたのと対照的に、RadioheadのAirbagでは交通事故がエアバッグによって防止される様子が歌われている。

In a fast German car

I'm amazed that I survived

An airbag saved my life

だが、ここで歌われている「エアバッグが私の命を救ったんだ」というフレーズは全くの皮肉でしかない。"Airbag"が収録されている"OK Computer"のアートワークに目をやると、「飛行機が墜落した時の避難方法を伝える機内パンフレット。迷子のピクトグラム。郊外の建売り住宅。モノとヒトを効率的に運ぶモータリゼーション。ビジネスマンとがっちり握手する男」が描かれていることから分かるように、「『適応しろ、幸せになれ』とばかり企業や国家が売り歩く幸せや安全、便利さとは、実のところ恐怖を植え付けることでしかない」*11ということがこの歌詞で表現されている。

大企業や国家権力は、消費者に交通事故の危険性とエアバッグによる回避可能性を説くことで一種脅迫まがいの形で商品の購入を迫り、「安全さ」を売り歩く。この国家による「自己の安全」の強制は、イギリスにおけるシートベルトをめぐる議論でより顕在化したという。

イギリスでシートベルトを強制する法律を作ろうとした時には、人間の自由との対比が問題となった。自分の命は自分で守る。他人、国家からそれを強制されるような、シートベルトを締めるべきという法律は、人間の自由を奪うものだとされた。シートベルトによって安全になるにしても、人には愚行権があるではないか、というものであった。ただ、子供の安全のためにはシートベルト強制もやむなし、という仕方でその法律が数年かけて通った。*12

今ではシートベルト装着が義務となっていることは当たり前のことだと思えるかもしれないが、「『自分の命』を『守らなければいけない』という義務は、個人の自己決定権の侵害である」という議論は確かに考えなければいけない問題である。

シートベルトがわざわざ締めないと機能しないのと異なり、エアバッグは事故が起これば自動的に機能する。この段階になると、もはや自分の持ち物たるクルマをどのように使うかという「自らの所有物を自由に使用する権利」が完全に失われ、個人のコントロールを超えたところに存在することとなる。自己の権利は「安全」を盾に失われ、国家や企業という大きなシステムの中で、我々は飼い殺されてしまうのである。

その意味で、Radiohead現代社会の描き方は非常に悲観的であるが、一方で彼らは「大きなシステム」に対する批判を止めることはない。彼らの批判の中で、非常に象徴的なのが、"No Surprises"におけるグローバリゼーション批判である。

アルバムは終盤―鉄琴とアルペジオが美しい”No Surprises”へとなだれ込む。この曲のサウンドはアルバム一の美しさとかすかな幸福感に彩られているが、内実は全くの皮肉である。一見するとそこに描かれているのは郊外の平凡な生活であるが、「皮肉さ。全くの皮肉。これ以上無理っていうくらいにね。あの曲をまんま解釈するなんて、できるわけないよ。」*15というトムの発言にもあるように、平凡に見える日常が一方で世界の環境破壊に加担しているというのにそれに全く気付かない、そんな中流階級一般の一種の「事なかれ主義」を皮肉っている。”I’ll take a quiet life and a handshake of carbon monoxide”というリリックにも表れているが、”no alarms and no surprises”―「平穏であれ。何も起こらないでくれ。」と希望を願う先進国に住む市民たちが、実際はプラスチックを燃やすなど環境破壊に(それもほぼ無意識的に)貢献しており、世界の平穏を破壊する一端を担っている、という残酷な真実を見事に歌い上げている。実際にこの第三世界を苦しめる「事なかれ主義」の帰結として発生したアジア通貨危機からの「リーマンショック」は、まさにこうした先進国の「事なかれ主義」が第三世界を通して翻って先進国へ影響を与えるという一種のしっぺ返しであった。結局この自分の幸せだけを追求する事なかれ主義は悲惨な結果を生んでしまったのである。

Radiohead "OK Computer"再考ーDisc Review : Radiohead / OK Computer - ゆーすPのインディーロック探訪

「自分の幸せは誰かの幸せを犠牲にすることでしか成り立たない」というあまりに残酷なテーゼを直視したRadioheadだが、この現実の直視には、資本主義を乗り越える可能性が秘められている。見田宗介は、近代における資本主義システムが、発展途上国という「外部」の搾取によって存立してきたことを改めて直視し、搾取なき世界の可能性を、社会の消費化・情報化に見出している*13

情報は、自己目的的に幸福の形態として、消費のシステムに、資源収奪的でなく、他社会収奪的ではない仕方で、需要の無限空間を開く。*14

Radioheadに対して見田の議論は技術的進歩にポジティブな意味を見出そうとしていることが分かる。この意見の相違は情報化・消費化社会の両義性を示している。すなわち、情報化・消費化は個人の権利を縮小させる可能性がある一方で、新たな消費の可能性、需要の無限空間を切り開く可能性を秘めているということである。その意味で、Radioheadの指摘はもちろん重要であるが、一方で情報化・消費化がポジティブな可能性を秘めていると指摘して本節を締めくくりたい。

 

□カーセックスと資本主義ーーThe 1975 / Love It If We Made It

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交通事故による劇的なクルマの破壊もまた資本主義の中に吸収され、エアバッグやシートベルトの義務化によって自己決定権が侵害され個人が大きなシステムの中に飼い殺されてしまうとするならば、我々は、資本主義というシステムから逃れることは出来ないのだろうか。The 1975のLove It If We Made Itは、この難問をまったく別の形で解決しようとする。

We're fucking in a car, shooting heroin

Saying controversial things just for the hell of it

冒頭からカーセックスが描写されるわけだが、これはまさしく資本主義の象徴としてのクルマに対するラディカルな形での反抗である。資本主義の象徴という意味では、理論的、経済的、公的な空間である「クルマ」に、「愛」という感情的、非論理的、個人的ありかたをぶつけることで、そもそもの資本主義対個人という対立図式そのものを無効化しようとしているように思えてくる。

一方で同楽曲はその後、近代のもたらした失敗について、いくつかの具体例を交えつつ歌い上げる。

And we can find out the information

Access all the applications that are hardening positions based on miscommunication

Oh Fuck your feelings

Truth is only hearsay

We're just left to decay

Modernity has failed us

フェイクニュースSNSの興隆、トランプ現象etc...このパートは、近代の失敗について、特に情報化の観点から捉えたものである。我々は世界中の情報を瞬時に入手できるようになり、同時に情報を簡単に発信することも可能になった。しかしながら、この情報化は、「何が真実か」を覆い隠してしまい、相互不信と社会の分断を招くことになった。見田が情報化に希望を見出したのは1990年代末のことであったが、実際の21Cのありようを見ていると、情報化の良い側面以上に負の側面が目立っているように思う。

And poison me daddy

I've got the Jones right through my bones

Write it on a piece of stone

A beach of drowning three-year-olds

Rest in peace Lil Peep

The poetry is in the streets

Jesus save us

Modernity has failed us

次のパートでは、ドラックの過剰摂取、メンタルヘルス、自殺といった現代的な個人をめぐる不安を描いている。これまでの社会が一つの大きな理想に向かい、社会的存在として生きていたのに対して、現代社会において理想は多元的で断片化し、社会的紐帯を喪失した個人として生きねばならない。そうした中で、個人主義化は伸長し、孤独感はより一層深まる。以前のように絶対的な正解(神、理性、進歩etc...)が存在しない世の中では、どうすればよいかもわからないし、誰も教えてくれない。

では、出口のない近代の中で、我々はたださまよい続けるしかないのか。The 1975の同曲は、そんな時代だからこそ「何かを成し遂げることは素晴らしいんだ」と歌う。近代がいくらろくでもない世界であるとしても、我々はそんな世界で生きなければならない。ニヒリズムに陥ってばかりいては淘汰されてしまう。そんなどうしようもない世界だからこそ、「何かを成し遂げること」は素晴らしいのだ。

 

□おわりに

本論は、ポピュラー音楽において資本主義の象徴としてのクルマがいかに表現されているかを追うことで、彼らが資本主義をいかにして乗り越えようとしたのかを考察してきた。The SmithsはThere Is A Light That Never Goes Outで、「二階建てバスや10トントラックに轢かれても、君の隣で死ねるならそれもいいね」と交通事故によって現実の鎖を引きちぎろうとし、RadioheadはAirbagで、国家や企業が人々に「安全を強制」することで我々は大きなシステムに飼い殺されているという現実を悲観的に描き、The 1975はLove It If We Made Itで曲の冒頭から”We're fucking in a car"とカーセックスを描写することでラディカルに資本主義を乗り越えようとした。

だが、そもそも彼らの音楽はポピュラー音楽である以上、資本主義無しでは存在することもできない。実際に彼らのメッセージをここまで考察してきたが、悲観的な結論しか導けないような気がしないでもない。つまり、結局はポピュラー音楽は資本主義に吸収され飼いならされてしまうのだと。資本主義のオルタナティブを構想することは簡単ではないのだと。

そんな状況だからこそ、「何かを成し遂げることは素晴らしい」とThe 1975は歌い上げた。どうしようもない世の中だからこそ、そんなポジティブさが必要なのである。ドラマチックな自殺も、厭世主義的な後ろめたさも、21Cを生き抜くためには役に立たない。必要なのは特別な何かじゃない。何をするか、何を成し遂げたかじゃない。ただ、ほんのすこしポジティブに、何かを成し遂げようとする自分を肯定してあげるなのかもしれない。The 1975の"Love It If We Made It"には、そんな微かな希望が隠されている。

 

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ということで、ちょっと学術チックな記事を書いてみました。読み返すと、論旨はごちゃごちゃで結局結論も導けずというダメっぷりなのですが、書いてて楽しかったです。またこういう記事にリベンジできたらなぁと。ではでは。

 

*1:日本の自動車生産額は20兆円にも及び、国家予算の1/4ほどとなる。高田公理. (2008).「日本社会と自動車」より

*2:藤井聡. (2008)「自動車を巡る社会哲学的論考——かしこいクルマの使い方を考える」

*3:上利博規. (2005).「アドルノのポピュラー音楽批判の限界——音楽文化論の組み換えのために」

*4:テオドール・アドルノ. (1970).『音楽社会学序説』、(1971).『不協和音——管理社会における音楽』など

*5:上利博規. (2005).「アドルノのポピュラー音楽批判の限界——音楽文化論の組み換えのために」

*6:毛利嘉孝. (2007).『ポピュラー音楽と資本主義』

*7:大澤真幸. (2018).『サブカルの想像力は資本主義を超えるか』

*8:マーク・フィッシャー. (2018)『資本主義リアリズム』

*9:ジャン・ボードリヤール. (1979).『消費社会の神話と構造』

*10:[ibid. 1979]

*11:田中宗一郎. (2017).「OK Computer OKNOTOK 1997-2017ライナーノーツ」

*12:斉藤了文. (2015).「自動車安全を巡る7つの哲学的問題事例」

*13:ただ、見田宗介の議論はどちらかというと「資本主義のオルタナティブの模索」というよりは「資本主義の欠点をいかに乗り越えるか」という問題意識に立っている。

*14:見田宗介. (1996).『現代社会の理論——情報化・消費化社会の現在と未来——』