ゆーすPのインディーロック探訪

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"普遍的感情"なるものは存在するのかーAnime Review : ダーリン・イン・ザ・フランキス/DARLING in the FRANXX

"普遍的感情"なるものは存在するのか

Anime Review : ダーリン・イン・ザ・フランキス/DARLING in the FRANXX (第1クール:1-13話)

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人間とは何か。この簡単に答えられそうでなかなか難しい問いは、古代から現代に至るまで、常に人々の頭を悩ませてきた。近代哲学は、人間には「意識」が存在するとして、人間を「意識的存在」と定義した。かのマルクスは、フォイエルバッハの定義を援用して、人間を「類的存在」と定義した。

 

・人間の感情の「抱き方」は普遍的か?

「意識的存在」という定義において前提となっているのは、人間には喜び、怒り、哀しみ、楽しさ、といった感情が存在し、そうした感情に意識的である、すなわちそうした感情が存在することに自覚的だ、ということだ。

しかし、何に対してどのような感情を抱くか、ということは、人それぞれ異なる。猫が好きな人にとっては、猫を見て「可愛い」と思うかもしれないが、猫に顔を引っ掻かれたことがある人は猫を見て「怖い」と思うかもしれない。

こうした感じ方の違いは、個々人の背景となる時代や社会が異なれば180度変わってくる。例えば、現代の日本において葬式は「悲しいもの」であると当然のように考えられているが、アメリカ・ニューオーリンズにおいては「ジャズ葬式」なる形式で、「楽しいもの」として考えられている。

こうした違いに直面して、我々の感情の抱き方というものが、人類普遍の一般的なものである訳ではないということがわかってくる。猫を見て可愛いと思うのは、葬式で悲しむのは、当たり前=絶対普遍的なものではないのである。

 

・人間のもつ「感情そのもの」は普遍的か?

ここからさらに一歩踏み込んで考えてみよう。そもそも我々が抱く「感情そのもの」は普遍的なのだろうか。悲しみという感情は、それ自体絶対的に存在するのだろうか。喜びという感情は、それ自体絶対的に存在するのだろうか。

これらの「感情そのもの」が、上述の「感情の抱き方」同様普遍的なものではなく、個々人の背景となる時代や社会に応じて180度変わってくるものだとしたら。「悲しい」という感情は決して自明のものではなくなってくる。

 

・恋愛を知らない「コドモ」達 

ダーリン・イン・ザ・フランキス(以下ダリフラ)において俎上に上げられる感情は「恋愛感情」だ。13部隊の彼らは「好き」という気持ちを知らなかった。彼らはゼロツーから「キス」や「好き」という言葉を聞いた際に、「キスって?」「好きってなんだ?」と繰り返している。大人たちに決められた男女のペア=パートナーと2人で戦うものの、そこにあるのは信頼や兄妹愛であって、特別な恋愛感情ではなかった。

さらに、10話でゾロメが出会った「大人」たちは、結婚や出産というライフサイクルを放棄している。パートナーと暮らしているというが、それは我々が思い浮かべるような、恋愛と結婚を前提とした暮らしではない。彼らにとって、結婚は「古い慣習」であり「何をするにも2人で居なきゃいけなくてわずわらしくて不自由なもの」なのである。それに比べて新しいパートナーとのあり方は「1人で好きに互いに干渉されずに生きることができて自由で良いものだ」とまで言っている。

こうした「恋愛感情」なきディストピアは、われわれの目にはいささか奇妙に映るかもしれない。しかしながら、感情が個々人の背景となる時代や社会に応じて180度変わってくるものだとしたらどうだろうか。この背景と感情の関係性を明らかにするために、ここでダリフラの時代・社会的背景を少し考察してみよう。

 

・時代的、環境的背景も違えば感情も違う?

時代は現在われわれが生きる時代の未来のことだと考えられる。我々になじみのある風景はすべて廃墟として存在している*1。その社会においては「子供」と「大人」の一種の断絶がある。「子供」は戦闘のために調達されたいわば人間兵器であり、「大人」はそんな「子供」たちが戦うことによって、自らの生活を守っている。この「子供」と「大人」のあり方は現在の我々のあり方と全くもって対照的だ。我々は子供を産み、守り、育てる。その過程で子供は大人になり、またその大人が子供を産み、守り、育てる、といったように循環していく。

現代社会で当たり前の前提となっているのは、「子供は出産によって作られる」ということと「人はいずれ死ぬ」ということである。すなわち、我々が子供を作るためには、一組の男女が恋に落ち、結婚をし、性行為をするという一連のプロセスを必要とする。さらに、我々は皆いずれ死を迎えることを知っているが、そうであるがために、自分の子供を作ることで、人類社会の維持に貢献することが求められる。この両者は結びついており、「人は死ぬがゆえに子供を作る必要に駆られ、子供を作る必要に駆られるがために、結婚をすることが要請される」ということになる。結婚・出産・死はすべて連関しているのだ。

では、この二つの大前提が失われてしまったら、すなわち、「子供を出産という過程なしで作ることができる」ようになり、「人は永遠に生き続けられる」ようになったとしたら。結婚と出産と死の連関は完全に失われる。人が死なない以上社会はそもそも子供を積極的に作ろうとは考えないだろうし、もし子供を作るとしても子供を出産ではない手段で作ることができれば出産やそれに至るまでの恋愛→結婚のプロセスは完全に不要のものとなる。

感情が個々人の背景となる時代や社会に応じて180度変わってくるものだとしたら―と私は先に仮説を立てた。この仮説に立って考えると、「子供を出産という過程なしで作ることができる」ようになり「人が永遠に生き続けられる」ようになった時代・社会において、「恋愛」や「結婚」という概念が存在しないとしてもそれほど突拍子な話ではないということが分かる。この二つの大前提が失われている*2ダリフラディストピア的世界において、13部隊の彼らが「恋愛」という感情を知らなかったことはこうした時代的・社会的状況から説明づけられる。

 

・変わり始める「コドモ」達

では、ダリフラの結論は「普遍的感情なるものは存在せず、感情は時代的・社会的背景によって構築される」ということなのだろうかというと、そうではない。

確かに13部隊の彼らは、恋愛感情を知らず、有していなかった。しかし、ゼロツーが「好きっていうのは特別な存在のことなんだ」ということを教えたことによって、彼らは「好き」という感情を抱き始める。

ここで言語が果たしている役割について述べようとするとまた話が長くなるので割愛するが*3、(その過程で「ゼロツー」という媒介が必要であったことは間違いないが)とにもかくにも彼らは「好き」という感情を有することができたのである。

この点に関連して、興味深いのがダリフラにおける「夢」の役割である。彼らは「夢」によって、自らの感情を確認する。ミツルがいくら自らの感情に嘘をつこうとしても、「夢」はそれを許さなかった。ダリフラディストピアにおいて、情念的感情というものは不要なものとして考えられている。しかしながら、いくら「不要なものだ」と「大人」達が管理しようとしても、「夢」の領域における無意識はどうすることもできないのである*4。もっとも、13部隊が12話で「ガーデン」に訪れた際には、もう「夢」のコントロールが科学的に可能になっているかもしれないが。

 

ダリフラと私たち

ここまで、ダリフラの特に恋愛感情とその社会的背景について着目して論じてきた。この「恋愛感情」無きディストピアが、どこからともなくわいてきた突拍子もない世界なのではなく、あくまでも科学技術の発達という我々の生きる現代社会の等直線上にあるとしたら。「恋愛感情」の喪失を生んだ原因があくまでも「生殖技術」と「延命技術」の進歩にあるとしたら。このディストピアをばかばかしいと簡単に退けることはできないだろう。

現代社会は大きな岐路に立っている。これから先、我々を待ち受けている世界は我々の想像をはるかに上回るかもしれない。そんな世界の分岐点に立って、我々は、「ありえる未来」としてダリフラの帰結を見守るべきなのかもしれない。

 

 

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ということで、ダリフラ=アニメ作品ののレビューを書いてみました。

 

前回のブログで「音楽以外の記事も書くぞ」と言ったので、有言実行。ばんざい。(続くかどうかは別問題。)

 

ということで、このダリフラですが、実はまだ完結しておりません。

完結してない作品をどや顔で語るというタブーを犯してしまっているような気がしますが、気にしない。ということで本記事はあくまで13話までの考察です。

 

現在2クール目に突入しており絶賛放送中なので、気になった人はぜひぜひみてみてくださいね。

 

ではでは。

*1:逆に言えば、廃墟でもなんでも「残っている」ことは確かであり、そこまで遠い未来のことではないとも考えられる。

*2:現段階では明確な言及はなくあくまでも推測の域を出ないが、10話の「大人」たちを見ているとなんとなく想像がつくことでもある。

*3:言語に先立つ概念は存在するのか、という議論に関連している。すなわち「好き」という言葉の意味を知らずに「好き」という感情を抱くことができるのかという問題である。

*4:無意識と夢について、フロイト精神分析入門 上』参照。